「劇場的春、京都」アーカイブ

「劇場的春、京都」実行委員会が2015年度より行った、京都の劇場インタビューのアーカイブを行うページです。お問い合わせは kyoto.e.season@gmail.com までお願い致します。

WEB連載 第1回「スペース・イサン」

京都演劇の系譜をたどる劇場インタビューシリーズ
WEB連載第1回 「スペース・イサン」

話し手:
松浦武男(スペース・イサンオーナー)
田辺 剛(スペース・イサンプロデューサー、下鴨車窓主宰、劇作家、演出家)

聞き手:
大崎けんじ(イッパイアンテナ主宰、劇作家、演出家)
保田菜央(龍谷大学、劇団未踏座)

立会い:
沢 大洋(劇場的春、京都 実行委員)

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2014年12月17日京都市内喫茶店にて

 

 

20周年の節目

大崎:スペースイサンの設立が1995年。もう20周年ですね。田辺さんがプロデューサーに就任されたのはいつごろなのでしょうか。

田辺:就任したのが2014年10月なので、まだなったばかりですね。20年間ずっと松浦さんがおひとりでやっていたことを引き継ぐのは、いきなりテレビのチャンネルを切り替えるようにはいきません。少しずつ受け継いでいきたいと思っています。

大崎:なるほど。松浦さんが劇場の持ち主で、田辺さんが劇場を今後どう活かしていくのかを考える。これまでのことを引き継ぎながら新しいことも模索できるように、役割分担を始められたばかりなんですね。

田辺:そうですね。

 

劇場以前?

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大崎:松浦さんはスペースイサンのオーナーの前には何をされていたんでしょうか?

松浦:人形劇をやって、人間座(※1)やくるみ座(※2)の移動公演(※3)を手伝ってたね。京都では移動公演も結構あった。そうそう、人形劇団は、高校を出る前からやっていたね。

大崎:松浦さんが人形を動かしてたんですか?

松浦:そうそう、[手を動かしながら]こないしてしゃべるってね。その頃がちょうど人間座旗揚げの頃だから、18歳くらいかな。くるみ座はそれよりもか前やしね。

大崎:松浦さんはスペースイサンのオーナーの前には何をされていたんでしょうか?

松浦:人形劇をやって、人間座(※1)やくるみ座(※2)の移動公演(※3)を手伝ってたね。京都では移動公演も結構あった。そうそう、人形劇団は、高校を出る前からやっていたね。

大崎:松浦さんが人形を動かしてたんですか?

松浦:そうそう、[手を動かしながら]こないしてしゃべるってね。その頃がちょうど人間座旗揚げの頃だから、18歳くらいかな。くるみ座はそれよりもか前やしね。

 

※1 1957年に旗揚げされた、京都を拠点とする劇団。創作、上演の場として1999年に人間座スタジオを創設。
※2 1946年から2007年に京都を拠点として活動した劇団。
※3 出来上がった美術や衣装などとともに地方へ出かけていき、上演を行う公演形態のこと。

 

戦中の芝居

大崎:松浦さんの世代ってどういうきっかけで演劇やろうって思うんですか?

松浦:この間たまたま京都で戦前から児童演劇をやってた人の本を貸してもらって。僕は戦争中言ったらまだ子供やからねえ。でもその人は太平洋戦争とかそのくらいの時からお芝居をやってはってんやからね。あんなドンチャカやってる最中に劇場を作って。そんだけ人もいたってことやからね。私はそれをはじめて観て、自分で芝居やりだしたころにはもうあちこちに移動劇場とかやってる人がいたからね。劇団京芸(※4)よりまだ古くからやってる人がいる。こんな戦争の最中、まあ、言論統制の時代やね。そんなときにこんな芝居ができたってね。子供の芝居やけどね。

そやけどあんな時代に、それくらいの活動してはったのはたいした事やと思う。

 

※4 1949年に劇団京都芸術劇場として創立。1960年に演劇部門と人形劇部門がどれぞれ独立して以降、劇団京芸、人形劇団京芸として京都を拠点に活動している。

 

「南」という場所について

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大崎:劇場が京都の南の方に位置しているのには、どういった狙いがあったんですか?

松浦:私が南の方でやり出した根拠でもあるけれど、元々この辺りでは東本願寺の中の塔頭で(演劇を)やってたんです。でも、京都のほとんどの劇場が今出川より北にあって、南の方にも一つあった方がいいんじゃないかと考えた。京都の南にもやりたい人がいるからね。現実に未踏座(※5)なんかは、アトリエ劇研(※6)行った方が仲間ができていいかもしれないけど、移動だけで一時間もかかる。

大崎:私は劇団活動をしながら、その時々のやりたいことに合った劇場とだけ関係が密になるのに悩むことがあります。たくさんの劇場の方々とつながった方が活動の可能性は増えると思うんです。南に住んでいる方々向けにスペースイサンを設立されたとのことですが、北の方々や劇場とのつながりはあったんでしょうか。

松浦:波多野さんが向こうに住んでて、アトリエ劇研をつくって、その周りの仲間が使い始めた。その中に労演(※7)の遠藤さん(※8)もいた。うちはそれはなく、私だけ。その時その時で、私の知ってる人たちが南で自分達が便利だということで来てる。そうそう、劇団冬芽舎(※9)も十条くらいに稽古場を持って、稽古場公演もしてたね。

大崎:京都の演劇文化は、北と南で分かれていた印象はありました?

松浦:そんなことはない。でも、たまたま地域的に南の方には劇場がなかったから、来る人も少なくて。みんな北へ北へと集まっていった。

田辺:劇場を作ろうというときに、アトリエ劇研は波多野先生の持ち家を改装したんですね。イサンはわざわざ劇場をやろうと買った物件というわけじゃないですよね。

松浦:いや、あそこは私の全財産で(購入した)。市内でいろいろ探したけど、予算と桁が違うので。向こう(現在のイサンの場所)なら、ギリギリ想定していたスペースが確保できた。それでも入り口が狭くて変形やろ。不動産屋からしてみたら値段がどんと下げられる条件なんやね。

(スペースイサンHPの搬入口写真を使用)

田辺:けど大抵は家を改装しますよね?

松浦:人間座もそうやからね。自分の家を。

田辺:くるみ座は違うんですか?

松浦:あれは買ったもの。それだけの寄付金が全国から集まったわけ。主に名前を出したのは、岸田國士さん(※10)。毛利菊枝さん(※11)の旦那さん(※12)もその道では有名な人。それが京都に来て京大の北村栄三さん(※13)、田畑実さんだって、その名前でばーと寄ったわけ。京大やら同志社で演劇研究をしていて、劇団にしようと。岸田さんの名前をだしたことで、有力者から寄付金が集まった。僕もそこにいたんだけどね。

大崎:へー!岸田國士さんって京都とのつながりもあったんですね。

松浦:いや、岸田さんと毛利さんとの繋がり。もちろんご主人もそうだけどね。

田辺:元田中にかつてあって、いまはなくなってるんだけどね。

 

※5 京都の龍谷大学が公認する演劇サークル。
※6 左京区の下鴨に位置する民間の小劇場。館長、波多野茂彌によって 1984年「アートスペース無門館」としてオープン、1996年より現在の名称になる。
※7 京都労演。1956年に発足した、非営利の演劇鑑賞団体。
※8 遠藤寿美子。1937-2003。演劇プロデュー^サー。当時、京都労演の役員を務めていた。
※9 1971年から京都を拠点として活動。
※10 1980-1954。劇作家、演出家。その業績を讃え白水社によって創設された岸田國士戯曲賞は演劇界の芥川賞とも呼ばれる。
※11 1903-2001。女優。岸田國士に師事し、1946年毛利菊枝演劇研究所を設立、48年にくるみ座と改称。
※12 森暢。1903-1985。美術史家。
※13 1922-1997。俳優、演出家。京都大学在学中にくるみ座創立に参加。

 

浜の真砂は尽きるとも…

大崎:松浦さんがイサンを建ててから20年経って、京都の演劇を見ていて変わったなと思う事はありますか?

松浦:そういう分析はしたことない。相変わらず同じやなと。「浜の真砂は尽きるとも、なんとかの種は尽くまじ」…皆どんどんやりだすけど、次から次へと消えてしまう。

大崎:それでは、スペース・イサンを利用したもので、特に印象に残っている公演はありますか?

松浦:もめたことしか覚えてない(笑)。僕は大体仕事で接するのが裏方やからね。だからそっちの方が気になって。だから、きちっとスタッフ面もやってるとこは、頑張ってんなと。学生演劇は舞台監督が一番ベテランでなければいけないはずやけど、一番新人がやってたりすることが多くて役に立ってへん。使いっぱしりになるのはダメなんです。演出家に対してあかんと言えるのが舞台監督。どこがきっちりしてたかで覚えてるのは、鈴江さん(※14)がやっていた劇団八時半、。それと、八時半より前に烏丸五条にいた、劇団そとばこまち(※15)。僕が観に行った時でも、劇場の回りを3周するお客さんの列が出来ていた。終わりの方の人は入れなかったぐらい。それだけの劇団が京都にあったんやからね。
そとばこまちは、もともと西部講堂(※16)でやってて、次に烏丸御池ののビルの3階を借りてやってたけども、お客さんが徐々に徐々に大阪に移っていった。大学を卒業すると、京都から人は離れてしまうから。

大崎:それで大阪に劇団ごと引っ越しを?

松浦:そうそう。卒業してからもやろうと思ったら、京都よりも大阪。お客さんの入りを考えたらね。京都は学校でてから残ってる人はほんまに少ない。それは今も40年前も一緒。たまたまくるみ座とか人間座は、大将が地元の人で、自分が劇作してやってた。毛利さんと匹敵する林想さんという演出家もいたんだけどな、劇団京都ドラマ劇場という劇団で。

 

※14 鈴江俊郎1963-。俳優、劇作家、演出家。1993年に劇団八時半を発足。
※15 1978年、京都大学演劇研究会を母体として旗揚げ。2代目座長、辰巳琢郎の時に烏丸御池のビルにアトリエ兼劇場を構える。その後烏丸松原を経て現在は大阪市の十三に拠点を移し活動している。
※16 京都大学の厚生施設の一つで、1963年に現在の場所に移築された。利用者による自主管理・運営が行われている。

 

スペース・イサンのこれから

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大崎:田辺さんはスペース・イサンを、プロデューサーとしてどのように活かしていこう、変えていこうと思っていらっしゃいますか?

田辺:基本は劇団に劇場を借りていただいて、劇団のバックアップのようなことができればと考えています。資金的な体力がついてきたら、将来的には主催公演にも取り組みたい。松浦さんのおっしゃるように、北にはアトリエ劇研があり、南にはイサンがあるような、京都の劇場の地図がくっきりと見えるようになれば面白いですね。余談ですけど、京都市立芸術大学のキャンパスは現在桂にあるんですが、10年かけて、京都駅の東側に移転してくるんです。2025年ごろには京都駅の東側がアートの盛んなエリアになり、イサンは凄いはしっこですが、そのエリアに入っているぞって言い張れる位置なんです。市立芸大には舞台を学ぶカリキュラムはないけれど、その近くで劇場の存在感が出せるようにしていきたい。

松浦:音楽学部があるから、オペラはあるよ。

田辺:だけど、イサンでオペラというわけには。(笑)
かつてダムタイプ(※17)というグループも、もう亡くなった方ですが当時アートスペース無門館(現在のアトリエ劇研)のプロデューサーだった遠藤寿美子さんが発見して、うちでやんなさいって無門館に引っ張ってきたところから、海外で活躍するようなグループに成長したということがあります。
美術を専門にやっている中でも演劇やダンスに繋がってくる人たちは必ずいます。10年後にそういう人たちにイサンを使ってもらえるように、準備を進めていければいいなと思います。

 

※17 1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティストグループ。京都を拠点に海外公演など積極的に活動している。

 

民間劇場ならではの…

大崎:松浦さん、一点だけ立ち入ったことを聞いてもいいですか?ご結婚はされているんですか?

松浦:今?今はしてません。過去に二回してますけど。

大崎:ちなみに田辺さんは?

田辺:僕?僕は結婚しています。

大崎:民間劇場を運営することを身近で応援してくれる人がいるってのは、素敵ですね!

田辺:別にイサンに来たから結婚できるとかではないけど…。

大崎:(笑)

田辺:民間劇場を運営するのと、公立劇場の職員として就職するのとは全然話が変わってくるでしょ。民間劇場で安定するのは難しいですよね。安定を求めるなら、公立劇場で働くことをイメージした方がいい。民間劇場は、安定志向ではないそれなりの何か、別の発想を持っとかないと、続けていく時に辛かろうとは思いますね。

大崎:民間劇場ならではの魅力というのは、どんなところですか?

田辺:魅力というかまあ、好き勝手できるというのは。

大崎:ははは

田辺:そこは大切なところかもしれないです。

大崎:管理する側でも、それを借りる側でも、ある程度自由が利くと?

田辺:いやいや、借りる側はもちろん、別に公立劇場だろうが民間劇場だろうが、一定のルールはあります。公立劇場が不自由というわけでもなく、いろんなことを試みているところもあるし。ただ、借りる側からすれば、公立と民間の差も、ホール代をいくら払うのか、といった違いだろうと思うんですけど、運営の側でいうと民間劇場は自分たちでルールも作れるし、比較的自由度は高いだろうなと思います。ただ安定はない。劇場を借りて演劇をやる人がいなくなることはないと思いますが、使用料が安い劇場がたくさん出来たりするとうちも下げるか、とか…そのあたりの経営的な部分は複雑で、話しはじめると長くなると思いますけどね。

 

野放図というか、ある種の無謀さ

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松浦:しかしまあ、こういうインタビューの企画をやるなら、僕以上にお芝居のことやってる古い人たちがご存命の間にお話を聞きに行くのがいいと思うね。僕はお芝居以外のこともやってたから。今はどっかの美術館の館長してはるけど、京都の南の深草のあたりに稽古場兼公演もできる円形劇場つくってた人もいる。あの時代の円形やからね。そういう人たちがどっかで見切り付けてぽんとやめてしまう。美術館つくって、劇団の人とやってる。三条木屋町の射手座(※18)ももちろん知らんわな?

大崎:わからないですね。

田辺:アートギャラリーではなく?

松浦:そこでかつて毎週土曜日に芝居をやってた。よくそんなにやっていけるなと。五年か六年続いてたね。建物と射手座というギャラリーはまだある。経営者は変わっているやろけどね。

大崎:以前はもっといろいろな劇場があったんですね。

松浦:なんも、私とこと劇研だけとちがう。あちこちに、それぞれが自分たちで場所をつくってやってはった。

田辺:昔は自分たちで場所を持つという感覚が強かったのでしょうか?

松浦:今みたいに青少年活動センターのような稽古ができるとこないからね。見つけんとしゃあない。

田辺:でも、自分達で劇場や稽古場を持てば四六時中打ちこめる。

松浦:朝から晩までやるんだと。今やってる人はあんまりそういう感覚はないでしょ。

大崎:そうかもしれませんね。

田辺:もちろん今の人も場所を持てればいいとは思うけど、物価も高いのもあるし、そもそも京都の人間が少ないから、例えば自分の家を改装するような発想にならない。そもそも自分の住まいが賃貸だったりするから。

松浦:くるみ座も人間座も、京都の人間だったからね。

田辺:劇研も。大崎:一軒家をシェアして借りて、台本の読み合わせができたり、舞台美術や衣裳小道具が置けたりというのはありますけど、ある程度恒常的に稽古場としても劇場としても機能させるという発想はあまり聞かないですね。

松浦:僕からいえば、田辺さんがこれから苦労するだろうなと思う。やっぱり1人じゃ劇場の管理できひんからね、誰かにサポートに来てもらわんと。僕は、自分の空いた時間で貸しているからいけるけども。そうはいかへん。仕事が入ってるときでも貸さないと。バックアップが必要やし。京都市がくれるわけやない。

田辺:(助成金関係は)水ものですからね。

松浦:どっかに、お金っつうのはずーと(必要)

大崎:このインタビューをきっかけに色々なひとがイサンを、使って下さい!お願いします。笑

田辺:今は上演場所の選択肢の幅が広くなっていますよね。つまりカフェでもやるし、ギャラリーや、ちっちゃなところでもやること多い。わざわざ劇場を借りてやる感覚が弱くなっているのではないかなという印象です。特に、ブラックボックスでやる感覚が少ない。何にもない真っ黒な空間に俳優を立たせてやりたいという人が少ないと思いますね。
そういったことも含めて、リスク計算が早すぎるんだと思う。こんなにお金かけて公演やって結局また赤字か…みたいなことに対して、恐れが強いのではと。でも、そこら辺は野放図というか、ある種の無謀さを持っておかないと、やれないことでもあると思います。

大崎:選択肢が多いことは社会が豊かになってるとも考えられますが、結果的に相当な確信がないと無謀なことをやろうとは思わないのかもしれません。

田辺:演劇するために生活費を借金する感覚はないですよね。

大崎:社会全体が比較的、安全運転を心がけましょっていう流れなのかもしれないですね。

田辺:そうですね。

 

※18 立体ギャラリー射手座。1969年に開廊し、美術を中心に様々な作品を紹介した。2011年に閉廊。

 

あるところからの歴史

大崎:さっき、京都出身の人間がなかなかいないという話題もありましたが、実際に僕のやっている劇団でも、元々京都市に住んでいる人はいなかったんです。上の世代と交流する機会もそう頻繁にはないので、どうにかして自分たちで会いにいかないといけないな、と思います。

田辺:僕も劇研スタッフとして、30年史とかまとめていると、アトリエ劇研を中心にする京都の演劇は見えてくるんやけど、松浦さんと話すと、重ならない話がいっぱいある。

保田:そうなんですね。

田辺:南の方とか、くるみ座とかは、劇研を中心にした話には出て来ない。けれど、やっぱりくるみ座って言えば新劇の花盛りのころ、文学座にも匹敵する勢いがあったから、絶対、京都の話からは外せない。視点がいっぱいあるので、、あるところからだと、あるところからの歴史しか見えない。でもそれを色々網羅できると面白いことになるよね。

大崎:そうですね。今回はインタビューという形で色々お話を伺いましたが、また、お写真なんかもあるとおもしろいでしょうね。

松浦:資料だったら本出してる。毛利さんのお元気な間に作ってるから、もう20年経ってるかな。人間座もちゃんと本出してるし、京芸もついこの前50年史、その前も20年史、そういう本は出してるよ。京芸、人形劇団京芸、人間座、くるみ座と出してる。ちょうどその、最盛期っていうのが、イサンが出来るまでの状態。僕はそういう流れが終わった後くらいにスペース・イサン作ってるから。

大崎:そういう資料も集めてみたら面白いですよね。

松浦:言えば、本は集まるやろけどね。新劇団協議会ってのが毎月やってたんやからね。今はとぎれてしまって。今の人は、デモ行進なんかはいかへんでしょ、5月1日の。メーデーとか。大崎:昔に比べれば少ないんじゃないでしょうか。あまり聞いたことがありません。
松浦:それが、全体的な流れ、お芝居に対する考え方の差になってきてるんやろけどね。5月1日になったら、いかんならん。誰がいく?ってじゃんけんで決めたりしてたけど。今はそういう思想的なものとも今は違うもんね。まあその頃は、蜷川さん(※19)とか、そっちの方の大将がおったから。

田辺:府知事のね。

松浦:府立文化芸術会館(※20)なんかが出来たのは、そういう根拠があって。
当時はそのメンバーの高級官僚が蜷川さんの気持を汲んで、あそこに作ってるんやからね。
松浦:京都会館に小ホールができるやろ(※21)、50席くらいの泊まり込みくらいも出来るくらいの劇場。

大崎:確か200席のところができるのでは、他に700席、2000席だったかな。

田辺:松浦さん、そこはうちが担いますから。50席の。そしてどんどん送り出します。

松浦:やっぱり共産圏やアメリカ、フランスの劇団にしたって、バックアップがなかったらな。劇場の力だけでは、劇団の力だけではやっていけへん。そんなやり方のノウハウを、がんばってやって欲しい。ちっともリターンはないかも分からんけども、大事なことや。ちょっとでも、芽になるもんがでてくれたらそれで。

 

※19 蜷川虎三。1897-1981。1950年から78年に京都府知事を務める。
※20 1970年開館。座席数は約420席。
※21 京都会館は2012年に閉鎖し再整備の後2016年ロームシアター京都として開館予定。座席数約2000席のメインホール、716席のサウスホール、約200席のノースホール等。

 

芝居ちゅうのは底なし沼や。それか砂山や。

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保田:松浦さんが演劇をはじめられたころって、学生劇団・・・

松浦:高校生。学校の中での演劇。

保田:今と人数変わらないくらいですか?京都の中で、高校とか、学生で演劇やってるのって。

松浦:高校演劇コンクールっていって、京都でやる場所があったのよ。労働会館っていうのとか、民生会館とか。

保田:大学演劇はどういう状況だったんでしょう?

松浦:僕は大学いってないからわからんのやけど、大学は西部講堂やね。

保田:京大の。

松浦:西部講堂はフリーやったからね。そこに住んでるやつもいたし。そいつが僕らの仲間だった。全然学校も関係無しに、西部講堂で生活していた。もう亡くなったけどもね。
まあそうやって歴史をしゃべりだしたら、てんでばらばらに出てくるけども、そういう風に「演劇をやりたい」っていう人たちは必ず繋がっていってんねんけどね。その中の何人かは残ってるけども、残ってるからいいとか悪いとかいうのとは違って、たまたま条件が良かったからやろね。まあ寿命は来ますから。
今の未踏座も、7、8回見てるけども、いい子がいるときもちょいちょいあるね。僕の場合、直接やりとりがあるのは裏方やけどね。皆を仕切れて皆がそれに従うっちゅうしっかりした子が何年かに1人か2人はおる。

保田:未踏座は続ける人が多いですね。東京に行く人もいます。

松浦:続けてくれたらいい。お芝居ちゅうのは、1年2年で達成して、学校卒業したら終わりってのでもないんやからね。底なし沼や。それか砂山や。僕も砂山にどっぷり。

大崎:そのおかげで、今日はいろいろなお話を聞けて大変嬉しかったです。お話しいただき、本当にありがとうございました。

 

以上