WEB連載 第2回「人間座スタジオ(前半)」
京都演劇の系譜をたどる劇場インタビューシリーズ
〜WEB連載 第2回「人間座スタジオ」〜
話し手:菱井喜美子(人間座)
聞き手:合田団地(努力クラブ)、多田柾博(劇団ACT)
立会い:葛川友理(劇場的春、京都 実行委員)
人間座の成り立ちについて
合田:大分お世話になっていますが、(人間座を始めたのは)何年からになるんですか?
菱井:そもそもの劇団のはじめを言いますとね、京都の劇団と言うのは、くるみ座(※1)と言うのが戦後一番早くにできんねん。戦前から続く新劇と言う流れがあって、東京だったら文学座(※2)などがあって、その流れを受けて戦争が終わった途端に京都にも劇団ができたのや。
合田:そんな早い時期からあるんですか?
菱井:そやから昭和21年っちゅうことになるわけ。あんたら生まれてない(笑)。
それでくるみ座ができて5年ほどして京芸(※3)ができて、もう5年ほどしてうちはできた。だからうちもものすごい歴史があるねん。
合田:いや、そんな古いとは思ってなかったですね
菱井:そやろ? 1957年7月に主に京都大学の学生劇団出身者が集まって。
合田:え、その時期から学生劇団はあったんですか?
菱井:そやねん。うちの劇団員の多くは元京大の演劇部やからね。
合田:それは知らなかったですね。
菱井:あたしは違って、人間座が立ち上がって8年してから研究生として入るんかな。それで、関東で活動してはった毛利菊枝先生(※4)が疎開かなんかで京都にきてはって、終戦後いち早く京都で劇団をでつくらはるねんな。
合田:それは毛利さん中心に?
菱井:そう、それがくるみ座で、その立ち上げに参加していた田畑(※5)と言うのが、10年後に人間座というのを立ち上げて、くるみ座を出ていくことになる。なのでくるみ座と人間座は近しいわけやな。
※2 1937年に岸田國士らによって結成された東京を拠点とする劇団。
※3 1949年に劇団京都芸術劇場として創立。1960年に演劇部門と人形劇部門がどれぞれ独立して以降、劇団京芸、人形劇団京芸として京都を拠点に活動している。
※4 1903-2001。女優。岸田國士に師事し、1946年毛利菊枝演劇研究所を設立、48年にくるみ座と改称。
※5 田畑実(1925-1994)。脚本家、演出家、俳優。1957年に人間座を結成、主宰。
食いぶちの話
菱井:うちの劇団が出来た時はものすごいぎょうさん人がいてたけど、条件的に演劇をやっていけなくなった人が出てきたり、こんな所でやってるならいっそ東京に行った方がいいと言う人が京都からいなくなっていったんやな。
合田:いや、でも地方やとほんまに食いぶちがない。
菱井:ほんまにないな。その頃くるみ座は、映画やらテレビやらっていうところで仕事をもろうていかはんねんな。
合田:うんうん。
菱井:毛利先生のお力もあったんかな。まあまあ食べられる人間は食べられるし、食べられへん人間もぎょうさんいるんやけど、人がいっぱい集まってたとこやねんな。ほんで、一方京芸もぎょうさん人が集まんのやけど、ここは、小学校やら中学校の子どもの芝居を作ったりしながら、学校公演で食べて行こうとしてやってはったんやな。ほんでうちも両劇団の真似をして、マスコミやら学校公演やらを取り入れてやるんやけど。
合田:うーん。
菱井:やっぱりあかんのやね。俳優も劇団も東京あたりからもどんどん出てくるしね。近いところではね、あんたらでもよく知ってる遊劇体(※6)あるやろ。
合田:はい。
菱井:遊劇体と一緒に「11ぴきのねこ」とかやって、中学校、高校やら回っていくねん。もう今はやってないけれど、ずっとやっててん。
(チラシを見せながら)これは中学校で、これは高校で、こういうパンフ持って行って、売ってやってたわけやねんな。ほんで研究所やら作って研究生集めたりして、劇団の体裁をとりながら。新しい芝居も年に何回かやって、その作品がどんなんやったかいうのはね、ホームページにいっぱい書いてあるやろ。
合田:はい。
菱井:移動劇場とか、地方公演とかはここには載せてないんやけれど、そんなんやって劇団としては続いてきたわけやねんな。他の劇団も同じような活動はしてはるねん。みんなどれがええ言うたらそれを真似したりしてね。ほんで大学の講師とか、演劇の講師あるやろ、そんなんやったりとか、高校の演劇指導いうのがあんねん、電話かかってくるねんな、やってくださいって。その他にマスコミ出演とかも。
稽古場を持ちたい!
菱井:まあそんな仕事やらをやりながら、バイトもやりながら、続けてくるねんけど、稽古場はね、もう最初からみんな困ることで。みんなも困ってるやろ?
合田:今、京都芸術センター(※7)とかできてだいぶ。
菱井:常時借りられるんじゃないやろ。公演の稽古をする期間だけやんか。
合田:そうですね。申請だして、受かってっていう。
菱井:やろ。ほんでな、みんなね、昔から唐十郎(※8)やらでも自分たちがね、富士の裾野言うてるから、もう山の中やな。自分たちでそこを買うて、安いんやろうな、そんな山の中やし。それで、自分たちで掘っ立て小屋をつくって、稽古場を作ったというのよ、ものすごい美談やねんな。そういうのが昔はあったんや。京都でもね、最初は古民家かお寺なんか借りてきはるねんな、自分とこの劇団の稽古場に。
合田:場所がないから?
菱井:うん。場所がないからね。持つねん。自分とこの劇団は(稽古場が)幼稚園のここにありますとかいうてちゃんと持つねん。なんぼ(稽古)やっても芸術センターは自分とこの劇団の、ということにはならへんやろ。
合田:そうですね、持ち物ということにはならないです。
菱井:だから、MONO(※9)なんかは自分とこでちゃんとビルを借りてMONOの事務所にしてはるやんか。
合田:はい。
菱井:いずれはそうせなあかんで、みんなも。ほんで、そういうふうに借りてもね、ものすごい高いねんなビルの家賃って。それでね、みんなその家賃で買わはるねん、山の中を。ほんで、掘っ立て小屋を建てる。電気もない水道もない、自給自足の畑をつくって。
合田:生活もその場でやる?
菱井:その場でそこで住みこんでやるなんて、そんな時代やったんよ。もうみんな自分たちの稽古場をもつなんて夢やったわけやな。そんな時代。あんたらはそんなんはあんまりないかもわからんけど、そんなんでね、わたしらもものすごく(稽古場)欲しいな欲しいないうて。今言うたように、最初は幼稚園の遊技場を借りるわけやな。そやけど結局10年くらい経ってくると変わってくるねんな、結婚したり、職場で偉くなったりでやめていって、人数が少なくもなるやんか。だんだんな。30人ほどいてても10人くらいになってくるやんか。
合田:まあ、最初のエネルギーはね、だんだんなくなっていきますよね。
菱井:最初は皆もやってるように、団費(※10)とってやってたんやけど、あんまり人数が減ってくるんで、幼稚園でやってるアマチュア劇団ではあかん、ビルの一室を借りて職業化しようということになるねん。そやけど、ビルも大変なんやで、4万も5万もな。(家賃)今なんぼくらいになってるやろう、もっと高いのかもわからん。
合田:もっと高いと思います。くるみ座さんは(稽古場を)持ってはったんですか?
菱井:結局借りてたところを、毛利先生がご自分のお力で買わはるねん。それもね、顛末があるねん、いろいろ。みんなもこれから、いろいろあると思うわ。みんな自分の劇団をつくりたい、持ちたいばっかりに、銀行で借金したりして買っていくかもわからへんけど、その返済は大変なことやと思うねん。うち(人間座)は、どうかっていうと、田畑って代表だったんですけど、元はその人のお父さんからの遺産やな。ここ(人間座スタジオ)の原型はもっと小さかったんや。小さい民家。普通の家や。それを劇団で大きくしたんやけど、まだここを現在のスタジオのように広げる前にね、田畑が亡くなるねんか。突然に。わからんもんやで、人間って。
合田:突然やったんですね。
※8 1940年生まれ。劇作家、演出家、俳優。1963年に状況劇場を旗揚げ。岸田戯曲賞、芥川賞をはじめ多くの戯曲賞、文学賞を受賞。
※9 1989年に劇作家、演出家である土田英夫らによって結成。京都を拠点に活動している劇団。
※10 劇団運営のため定期的に劇団員が劇団に納める費用。
劇団の存続について
菱井:それでみんな劇団をどうしようと、もう辞めようかと。
合田:中心の人が亡くなるとね。
菱井:うん。せやけど、私はいまさら辞めて何になるのかって。私一人でもやりますいう風になったわけなんや。それで、私自身も親が亡くなったりして貰ったお金を注ぎ込んでこれを建てていくわけなんや。劇場みたいに、劇ができるようにしたわけ。ここがあったら、どこも行かんかて公演も打てるやろうって。くるみ座もそうしてはった。くるみ座が最初に小さい劇場といって(自分の稽古場で)やってはって、広さはうちよりもうちょっと大きいかな。それ見てるから「あ、そんなんもしたい」ってやっぱ思ったわけやね。それやったら劇場を借りなくてもいいし、お客さんが1人いてくれたらそれでええやろっていう考えで作っていくわけやな。
そしてここができたんやけれど、なんでわたし今、こういう風になっているかというとね。時代が変化しているというか、まぁその稽古場があってもなかなか劇団の人が増えんようになってるねんな、今は。おかしなもんでね、ぎょうさん人がいてたら落ち着くねんけど、少ないと余計人がこうへんねん、(劇団員が)居着かへんねん、来ても。ほんまやで、あんた。
合田:うちの劇団も今そうなってますね。
菱井:いや、あんたはまだ力があるから大丈夫や。研究生集めてもなかなかあかんねん。10年も昔やったら違ったかもわからんけど、今は若いの人う力のあるがどんどん出て来るねんな。その魅力いうのがあってな、もう古いところはあかんのよ。
合田:アングラ(※11)とかが、流行ってた時期ですか?
菱井:アングラって、あんな時のほうがまだみんな一所懸命やってたやん。いや、今のあんたやらもそうや。
合田:僕らですか。
菱井:あんたやら若い人間が出て来てるやんか。みんなもう、古い劇団を見向きもせんと自分らでどんどんやっていくやんか。もう今はそういう世の中になってるねん。だから古いところの魅力で来る人間はいいひんの、ほとんど。やっぱり力を持ってる人間はそんなん必要ないねん。自分でやりよんねん。
合田:まぁ自分でやろうと思ったらできますもんね。
菱井:やれんねや。ここの劇団が素晴らしいから行こう(入団しよう)っていうような劇団は、もうなくなってきてるわけやねんな。そんでもう小さくなったら、もうなかなか大きくはなれないって感じやな。ほんまにそうや。だからね、うちらでも最初のメンバーが残ってたらやで、何人かがやな。もう死ぬ気でやらなって血判書みたいなん書いて。その人間が3人やったら3人でもええで、もう絶対やらなって。もう死ぬまでやで、いうて。(笑)
合田:それくらいしといた方がええんかもしれへんなぁ。
菱井:ゆるゆるってしてたらあかんわ。落ちるわ、苦しい時に。公演やるときは外部の人間も呼んで来んとできひんやんか。フリーの人を。そんでその人たちにはお金を渡して、自分とこのメンバーにあんまりお金渡せへんってそういう風になってくるやん。そしたらまぁいろんな不満が出てきよんねん。劇団が弱いと。
合田:一回崩れだすとね。
菱井:もうあかん。ほんでわたしも決断して、劇団員みんなフリーになってもろたんや。もうあなたたちも自由なところにいって、芝居しなさいって、それのほうが伸びるかもわからへんしね。うちやったら、もうなんか押さえつけるみたいな感覚が残るのかな。
合田:雰囲気がね。それがだいたい、いつぐらいのことなんですか。
菱井:それがつい最近や。もうそんなこんなでね、まぁいろいろどこの劇団でも同じようやけど、自分が出来る限り年に1、2本くらいはな、芝居を作らんとあかんので、みんなの力を借りながらやってます。
後半につづく